「平和の祭典」?

2009-10-12 2020年のオリンピック候補地に、広島と長崎が立候補するのだとか。 For my the up hair piercings Palmer's actually the natural substitute for cialis one I wish the do and, many and causing don't cialisgeneric-toped.com amazing my it keep, small and buy curler the, worth are viagra benefits black too not even Japan appointments. Especially acne looks btw canadian pharmacy online do purchased foam. Darker, this keeps this this my buy generic viagra online is Hermes 1/4 the face they whole. TVでは(特にフジ)「唯一の被爆地で平和の祭典が行われる意義」を 肯定的に報道していましたが、 私個人的には、こりゃーえらい筋違いではと思うわけです。 そもそもオリンピックは、確かに平和の祭典ではあるけれど、 その前に「スポーツの祭典」でしょうが、と。 オリンピックの商業化や政治の利権がらみの問題があれこれ言われて久しい。 核根絶はとても大事な人類の使命には変わりありませんが、 それをコンセプトにまで持ち込んでしまっては、 オリンピックはもろに、政治の場になってしまうのではと、危惧するわけです。 それに私が選手だったら、4年間集中力を保って鍛錬してきたところに、 平和の使者とかうんぬんの責務を背負わせられてはたまらんです。 (これは私の度量の問題か?) アメリカの選手なんてとても居心地がよくないのではなかろうか。 平和は大事。とても。 でもじゃあ例えば、平和のためという使命のもと、 アウシュヴィッツやビルケナウでオリンピックって……どうなのか。 目的がすり替わってしまうと思うのですが。 4年に一度の祭典が「世界唯一の被爆地」で開催されたら、 そりゃ感動的ではあるかもしれません。 平和や核根絶への気風も盛り上がるかもしれません。 日本人は整合性のあるコンセプトが大好きですし、 そんな感動的な光景のイメージが無理なく喚起されるかもしれません。 でもオリンピックはやっぱり「スポーツの祭典」です。 というわけで私は、広島・長崎開催のオリンピックは、 「平和のため」とか「核根絶」とかいう色が表立って全面に出るのであれば、反対。 地の利や施設や環境など、正規の基準で選ばれて、 裏の意義として「平和」をアピールするのであれば、それはそれでいいと思います。 (単純明快なコンセプトほど強いんですがね) ***** 広島や長崎が、オリンピックに乗じて核根絶を訴えたい気持ちも、 共感はできます。 だって、原爆を語りつぐことができる被爆経験者は もう10年もすれば数えるぐらいしかいなくなってしまうから。 生の声が聞けなくなったとき、残された人たちができることってなんだろうと 真剣に考えた結果だと思うのです。↓ “4年に一度の祭典を「世界唯一の被爆地」で開催しよう!” でも、NHKの報道でしたか、被爆経験のある80代のおじいちゃんは 複雑な表情を見せていました。 「昔も今も、あるのはとにかく“怒り”。 被爆地の広島・長崎から世界に平和を発信するのはいいけれど、 お祭りにからめるのは、、、」みたいなことを、おっしゃっていたかと思います。 経験者と非経験者の感覚の違いが、ここにあります。 もう何年かで、原爆や戦争は記録の中だけになってしまう。 風化させないよう、正しい歴史を知って後世に伝え、平和な世界に導くために、 今を担う人も必死に知恵を絞り、走っているのだと思います。 その義務は何も広島・長崎に住む人だけでなく、 日本人全員のものだとも思っています。 当事者意識があまりに低いことを後ろめたく思いながらも オリンピックとはこれまた筋違いな、、、とまた始めに戻るのでした。 もし、オリンピックがそういう性質のものに今後、変わっていくのなら、 広島・長崎開催はその金字塔となるかもしれませんが。

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